ここ数日、村上春樹の『海辺のカフカ』という小説を読んでいて、のめりこんでいました。
私は本を読み終えると、心に残ったフレーズを書き留めておくクセがあるので、今回もそうしたいと思います。勝手なメモですみません。
この小説は、15歳の男の子が家出をする話です。旅の途中で、幼いときに自分を置いて出て行った母や姉と出会い、それに伴って不思議な現象が次々と起こっていきます。
それとは全く別に、ふたつの(それはやがて結ばれてひとつになる)サイドストーリーが並行して描かれていきます。こちらのほうは、少し頭の弱いナカタという初老の男性と、ホシノという若いトラック運転手が、ゆきずりで出会って一緒に旅をする話。
私は「僕」を主人公としたメインのストーリーよりも、サイドストーリーの方に、心ひかれるフレーズがたくさんありました。
でも俺は今のところ少しはナカタさんの役に立っている。ナカタさんの変わりに字を読んでいるし、あの石だって俺がみつけてきたんだ。役に立っているというのはなかなか悪くない気分だ。そんな気持ちになれたのはほとんど生まれて初めてのことだ。仕事をすっぽかして、こんなところまで来ちまって、次から次へとわからないことに巻きこまれているけど、俺はこうなったことをべつに後悔しちゃいない。
なんというか、自分が正しい場所にいるっていう実感があるんだな。自分がいったい何かという問題が、ナカタさんの横にいると、もうどうでもいいようなことに思えて来るんだね。比較するのはいささかオーバーかもしれんけど、お釈迦様かイエス・キリストの弟子になった連中も、あるいはこんな具合だったのかもしれないな。お釈迦様と一緒にいるときさ、俺っちなんかこういい気分なんだよな、とかさ。教義とか心理とかむずかしいことを言う以前に、その程度の乗りだったのかもしれない。
知的障害者=純粋と捉える人がたまにあるけれど、この場合そういった安易な感覚ではなく、ナカタさんには、障害とは関係なく、純粋な魂というものが生まれつき備わってるんじゃないかと思わせる感じが確かにあるのです。
「じゃあひとつ訊きたいんだけど、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わっちまう、みたいな」
大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。」何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにあります。恋と同じです。」
それまでクラシック音楽などほとんど聴いたこともなかったホシノ青年が、ナカタさんとの旅の途中で立ち寄った喫茶店で、べーートーベンの「大公トリオ」という曲を聴いて感動したときの話。
私も芸術家のはしくれですので、音楽や絵画や文学作品など、芸術に人が触発される話があると、非常に嬉しいのです。芸術でお腹がふくれるわけじゃないけど、「人はパンのみに生きるにあらず。神の口から出る言葉によって生きる」という聖書の言葉を信じたいですね。
「俺はさ、おじさん、こう思うんだよ。」と青年は続けた。「これから何かちょっとしたことがあるたびに、ナカタさんならこういうときにどう言うだろう、ナカタさんならこういうときにどうするだろうって、俺はいちいち考えるんじゃねえかってさ。なんとなくそういう気がするんだね。で、そういうのは結構大きなことだと思うんだ。つまりある意味ではナカタさんの一部は、俺っちの中でこれからも生き続けるってことだからね。まああんまりたいした入れ物じゃねえことはたしかだけどさ、でも何もないよりゃいいだろう。」
亡くなったナカタさんにむかってホシノ青年が話しかける言葉。
死者が生き残った人々の心の中で生き続けるということは、こういうことなのだと改めて思いました。
こんなふうに周囲に思われるような生き方ができればいいですね。でも生きてるうちはきっと無我夢中で、そういうことは考えないものかもしれません・・・・。
これから読もうと思われた方がありましたら・・・・・実はかなりネタばれしちゃってます。ごめんなさい。